忍者ブログ
「Axis Powers ヘタリア」の二次創作を扱う非公式ファンサイト。
19 . May
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

28 . January
色々好き勝手に書いているお話のプロットと言うには、お粗末ですが、補足的なものです。
時系列順。→はネタの覚書。後、私見的な見解部分があります。
抜けている事項は話に直接関与しないので、カットしてあったりします。
詳しくは、wiki先生にお尋ねください。寧ろ、そうした方がいい。

個人的な覚書なので増えたり、減ったりします。後、細かいことは気にしたら負けだ。軽く読んでいただけたらと思います。
 






 
 
 
1648年 ヴェストファーレン条約
→神聖ローマ帝国の死亡診断書。この条約の後、神聖ローマは失踪する。(無題Ⅵ・番外 落陽)

1786年 フリードリヒ大王 没(無題if せつない~)

フリードリヒⅡ世 第三代プロイセン国王(1712~1786)
説明しなくても、プロイセン好きな方なら色々とお調べかと。
容姿について読んだ本にあったので、覚書として記載。

フリードリヒはいわゆる中肉中背、頭髪は暗褐色で巻きかげんであり、目は大きく青かった。いつも頭を心もち横に傾けていたといわれる。早くから背中が曲がり、いわゆる猫背であったが、脚は真っ直ぐすらっとしており、歩幅はやや狭く、足どりは活発であった。指にはいくつかの立派な指輪をはめていたが、壮年期以後服装にはまったく無頓着で、刺繍のある華美な上衣を着てあらわれるのは、ごくまれな特別な宴会などの場合だけであった。老年期には常時着古した軍服を愛用し、左り胸に大きな星型の黒鷲の勲章をつけた。その上に好んで用いたのは、赤い裏地の、地面にとどくほど長い青色のマントと、三つの尖りのある古い軍帽であった。

清水書院 フリードリヒ大王 啓蒙専制君主とドイツ 村岡 晢著より 抜粋

           
1792年 フランス革命戦争(ナポレオンの第一次イタリア遠征)
1793年 第一次対仏同盟(英・墺・普・西)
1797年 リヴォリの戦い・ レオーベンの和約(仏・墺) 墺、同盟から脱落。これにより同盟は崩壊。

1806年 ライン同盟
この同盟の成立により、神聖ローマ帝国崩壊(無題Ⅰ)
第四次対仏同盟(英・露・典・普)

10/4  イエナ・アウエルシュタットの戦い
10/27 仏軍、ベルリンに入場
→プロイセン、ベルリンで子どもに出会う。子ども5、6歳(無題Ⅰ)

11/27 大陸封鎖令(ベルリン勅令)
→フランスがイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして発令した経済封鎖命令。イギリスを経済的に貧窮させる狙いがあったが、イギリスからの物流が断たれ、大陸側が返って貧窮する結果となる。

1807年 
2/7-8 アイラウの戦い
仏軍、東プロイセンに逃げた普国王を追い、救援に来た露軍と戦闘。
6/14 フリーとラントの戦い 
仏軍、露軍を捕捉し、撃滅。
ティルジットの和約(仏・露) 
ポーランドがワルシャワ公国として独立。ロシア大陸封鎖令に参加。
→この和約により、プロイセンはエルベ川以西の領土を失い巨額の賠償金を課せられ、病床に着く。一年ぶりに、子どもと再会。(無題Ⅱ)


ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ(1776年 - 1810年)

「美しき敵対者」「プロイセンの女豹」などとナポレオンに評された、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の王妃。
情けない夫に代わり、プロイセンの為に色々と奔走した女性。
この王妃様の働きがなければ、プロイセンはこの時点で滅亡、衰退の途を辿っていたかもしれない。
34歳という若さで、肺炎で死去する。
wikiの肖像画の王妃様は美人過ぎる。


1812年 ロシア遠征
露、大陸封鎖令を破り、英と貿易を再開。仏、露に攻撃を決意。しかし、露側の焦土戦術により、仏軍は貧窮。モスクワに入城するも、大火により仏軍は住居と食料を失う。仏は和平交渉を試みるが、露側からの返事はなく、冬が近づいて来た為に撤退を決意。撤退の過程で露軍の攻撃や冬将軍の到来により、遠征は失敗に終わった。

1813年 解放戦争 第六次対仏同盟(普・露・典・墺・英・ライン同盟諸邦)
ロシア遠征での仏軍の大敗に、普が宣戦布告。第六次対仏同盟が組まれる。

10/16 -19 ライプツィヒの戦い
仏軍を連合軍が破り、仏のドイツ支配を打倒。(無題Ⅲ)

1814年 ナポレオン戦争終結

3/31 連合6カ国がパリ入場。
4/13 ナポレオン、エルバ島に追放。
9/1  ウィーン会議(~'15年6/9)
戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的とした会議は各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進行せず、「会議は踊る、されど進まず」と後に評された。(無題Ⅲ)

無題Ⅲで散々、普が墺のことを悪く言ってますが、墺は第一次、第二次、第三次、第五次対仏同盟を他国と結び、仏と開戦しては敗走し、和約を結ぶということを繰り返して、第五次対仏同盟脱落時には皇女をナポレオンの後妻に出してたりします。…弱すぎだろう。こんなんでよく生き残れたなと感心する。
家訓が「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」 …では、仕方ないな。

1815年 フランス戦没 第七次対仏同盟(普・露・典・墺・英・蘭・ライン同盟諸邦)(無題Ⅲ)
6/8 ウィーン議定書
議定書に基づき、墺を盟主としたドイツ連邦発足。
→無題Ⅲ・Ⅳでは筆者勘違いのため、連邦発足が第二次パリ条約締結後な感じになってますが、気にしたら負けだ(←をい!)。

色々と思うことがあって、プロイセンは子どもをオーストリアに一時的に預けてみようかと考える。(無題Ⅴ)

6/15 リニーの戦い(無題Ⅲ)
6/16 カトル・ブラの戦い →仏、英軍の足止めにあい、普軍の撃滅に失敗。普軍追撃を逃れ、ラ・ベル・アリアンスに向う。
6/18 ラ・ベル・アリアンス(ワーテルロー)の戦い(無題Ⅲ)
※ワーテルローが一般的ですが、独読みの地名であるラ・ベル・アリアンスを採用。ワーテルローは近郊の地名を取ったもの。

普軍は英軍の来援に周り、仏軍の右翼を突き、撃破。戦況を変える。英軍の反撃が始まり、仏軍は敗走。ナポレオンは英に亡命を図るも、捕らえられた。

6/22 ナポレオン、セントヘレナ島へ流罪
7/8  ルイ18世がフランス国王に復位
11/20 第七次パリ条約締結 神聖同盟(四国同盟/英・露・墺・普) ライン同盟解体

無題Ⅰ~Ⅶ(第一部)までの流れは以上。

プロイセン主体の「北ドイツ連邦」発足が子どもが国に、オーストリア主体の「ドイツ連邦」は子どもは国として認められた訳ではないと言う設定。

1828年 北ドイツ関税同盟(第二部)(無題Ⅷ)
捏造でヘッセン=ダルムシュタット大公国さんが登場予定です。

1833年 ドイツ関税同盟条約
ナポレオン戦争で新たに得た飛び地を本国プロイセンに繋ぐ為、プロイセンを中心としたドイツの諸邦国によって形成された関税同盟。政治的統一に先立ってドイツの経済的統一を促したため、ドイツ統一の下地となる。

1848-52年 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡って、デンマークとプロイセン王国および関係国によって行われた戦争。

1850年 欽定憲法発布
1860年 日普修好通商航海条約
こんなに早く、お付き合いしてたのかとちょっと吃驚。'58年に米・英・蘭・仏・露とも条約を結び、これは安政の五カ国条約と言われ、不平等な条約だったそうで。これの条約改正にあたり、明治政府は岩倉使節団(無題番外私が~)を各国へ派遣となるんですが、…一体、どんな内容だったのか…。まあ内容は不平等なものだったようですが、緩い感じだったとか。普→ドイツ帝国になったときに改正されたようです。詳しい資料が欲しい。

1864年 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
2月、普・墺連合軍は、丁に宣戦布告し、シュレースヴィヒに侵攻。丁は、普軍の圧倒的な軍事力の前に劣勢に立たされる。
10/3 ウィーンにて条約が結ばれ、両公国は普と墺の共同管轄下に置かれる。戦争終結後、普と墺は両国の領有を巡り、戦争を起す。

1866年 普墺戦争(7週間戦争)
6/15 墺に宣戦布告 伊、普と同盟
7/3  ケーニヒグレーツの戦いで、墺軍大敗。
8/23 プラハ条約
この条約により普、ドイツ東西の普領を統合。
10/12 ウィーン条約(講和条約) 
墺、伊にヴェネツィア地方を割譲。

→某動画で有名な替え歌の内容は本当に素晴らしい。64年の戦争で墺とわざわざ連合を組んだのは、墺軍の軍装備や指揮系統などを調べ上げ研究するためで、その研究の結果、勝てると踏んだ普は開戦に踏み切り、その結果がドイツ統一に繋がる。(この戦争から、ドイツ帝国樹立がプロイセンの絶頂期かもしれない)
…と言うか、1864年 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が普墺戦争の前哨戦であり、墺を叩く気満々だったのかと思うと怖い。

気になるプラハ条約の内容
○ドイツ連邦の解体
○ドイツ統一におけるオーストリアの不干渉
○シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国のプロイセンへの帰属
○ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市のプロイセンへの帰属
○ヴェネツィア(当時はロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリア領だった)のイタリア王国への帰属
○敗れたオーストリアが賠償金2,000万ターラーを支払う

ドイツの統一手を引くなら 領土はいらねぇ♪

この内容自体はオーストリアは領土や賠償金を要求されなかったため、オーストリアにとってはさほど苛酷な内容ではなかったようで。色々と調べて、替え歌の凄さに気付きました。よく纏めたなぁ。それにしても、この後の対仏戦争のときとは雲泥の甘さ。

1867年 北ドイツ連邦発足
プロイセンを主体とした22の領邦からなる連合体を成立。
→子どもを領邦にお披露目。子どもに「ドイツ」の名前が付く。12、3歳くらい。
ここで、第二部完となる予定です。

オーストリア=ハンガリー二重帝国成立
統一ドイツから弾き出された墺、ハプスブルク家はその後衰退していく。翌年に祖国との間に、修好通商航海条約を結ぶ。

この年に日本では大政奉還。翌年に戊辰戦争、明治政府の樹立。

1870年 普仏戦争(第三部)
1868年、空位となったスペインの王位継承を争ってフランスとプロイセンとに齟齬が生じる。

西「なぁなぁ、プーちゃんとこの上司、俺の上司になってくれへんかなぁ?…フランスのとこは嫌やし、オーストリアんとこもなぁ…」
普「え?面倒臭ぇな」(子育てに忙しくそれどころじゃねぇんだけど)
仏「駄目、絶対駄目!!絶対反対!!」(プロイセンの上司がスペインの上司になればプロイセンに両側挟まれて、俺、超危ないじゃん!!)

…ってな、感じだったんでしょうか(妄想)。

一度は普側が折れ、平和的に解決したかにみえたが、普側に仏側は未来永劫継承権を放棄するように迫る。(エムス電報事件に至る経緯)

7/13 エムス電報事件 
フランスとの開戦準備を進めていたプロイセンの首相ビスマルクは、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世の電報を、フランスがプロイセンを侮辱したように改竄し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
7/19 仏、普に宣戦布告 開戦
北ドイツ連邦領邦は同盟に基づき、普側に付き、参戦。
宰相ビスマルク、事前の根回しにより、露、英、墺、伊の介入を妨げる。
9/1 セダンの戦い
ナポレオン3世が捕縛され、仏軍降伏。これにより、仏の第二帝政は終焉。
9/19 パリ包囲

1871年 ドイツ帝国樹立(ドイツ統一)
1/5 パリ砲撃開始。砲撃が続く中、1/18、ヴェルサイユ宮殿にてドイツ帝国皇帝として、プロイセン国王ヴィルヘルム1世が即位する。
→子ども、正式に「ドイツ」となる。この時点で14、5歳くらいに成長。
1/28 休戦協定
2月にヴェルサイユで仮条約。
5/10 フランクフルト条約で正式に調印
仏はアルザス・ロレーヌ地方三県を失い、50億フランの賠償金の支払いを命じられる。
 
ナポ公にやられたことをまんまやり返す。ベルリン占拠は相当な屈辱っだったのか。
でも、宰相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていたようで。しかし、大モルトケと軍と世論のアルザス・ロレーヌ併合を求める強硬な反対(プーも反対してそう)にあい、また、フランスはオーストリアのように将来同盟国となる可能性は無く、統一ドイツ帝国が実現すれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。このためビスマルクはしぶしぶパリへの進撃を命じたそうで…。

第三部では、悪巧みするプーと気が合ってしまったビスマルク氏とモルトケ氏と、史実の人物を書くのはちょっと勉強の足りなさが露呈しそうな感じの捏造過ぎる話になる予定です。プーとこの二人はもの凄く気が合いそうな気がするんだよ…。

この戦争終結後、祖国では12/23~’73年9/13の間に岩倉使節団派遣(無題番外 私があなたを慕うその理由)。
 
神聖ローマ=ドイツ設定ですが、神聖ローマとしての記憶はドイツにはないということになってます。プロイセンの無償の愛情を注がれ、ブラコンになっていきそうです。

第三部で全話完結予定です。

第三部は歴史上の人物とかも登場人物として出てくるので、勉強することがいっぱいです。…学校行ってるときもこんなには勉強しなかったよ…。
無題は、番外も時折入れつつ、プロイセンと子ども(ドイツ)をドイツ帝国樹立までをのんびり書いていく予定です。
 

長々と書きましたが、流れとして掴んで頂ければ幸い。
※wiki引用・参照









拍手[6回]

PR
Schalter
mail
メールアドレス記載の場合はメールにて、記載が無い場合はサイトにてお返事いたします。
P R
ACT
Powered by NINJA BLOG  Designed by PLP
忍者ブログ / [PR]