番外編で、本編。
神聖ローマとマリア。そして、神聖ローマの最期。
ほぼ、捏造なので色々突っ込みどころが多々あるでしょうが、目を瞑っていただければ幸い。
[15回]
今の世界に、深い常世の眠りを。
どうか、まだ見ぬ次の世界に美しい夜明けを。
ゆっくりと死神の足音が日増しに近くなるのを耳に、神聖ローマはそれでも日々の仕事に忙殺していた。
深い息を吐き、小さな身体には不釣合いな大きなテーブルの上重ねられた書類の束を見て、眉間に皺を寄せる。明るかった部屋は黄昏が迫り、暗い。真っ赤に差し込む日の光に神聖ローマは目を眇める。
青い空を見て、思い出すのは大好きなあの子。
赤い斜陽の夕暮れを、そして夜の帳を切り裂き、その先に昇る朝日を見て思い出すのは、皇帝に付き従い、イタリアの青く晴れた空の下で出会った子ども。
日に透けるとキラキラと水面に反射する光のような薄い金の髪に、見たこともない赤いコランダムの瞳。その瞳の色はアレキサンドライトのように色を変えた。
マリアと出逢ったのはもう随分と昔のことだ。
それでも、あの鮮烈な赤い瞳は印象的で、長く積もった記憶の中、一際、鮮やかな色をしていた。
「お前、国だろ?国って、どうやったらなれるんだ?」
「は?」
思えば、最初からその子どもは怖いもの知らずで、眩しいほどに絶望を知らぬ、希望に満ち溢れた目をしていた。小さな形でそれでも一丁前に騎士の正装をしたアルビノの異端の色をした子どもは皇帝の前、整列するドイツ騎士団の騎士達の間を縫って、突然、目の前に現れた。それに神聖ローマは目を見開き固まった。
「この、馬鹿者が!!礼儀を弁えぬか!!」
次の瞬間、子どもの頭には騎士団総長の鉄拳が落ち、それに子どもは悲鳴を上げた。
「いってー!!何、すんだよ!!」
「何するんだではない。この大馬鹿者が!皇帝陛下の御前でお前はいきなり、何を言い出すのだ!」
「何って、国になる方法を聞いただけじゃんかよー」
口を尖らせ、煩く抗議してくる子どもをあしらい、無理矢理黙らせると、総長は皇帝と神聖ローマに頭を垂れた。
「…御前、失礼致しました。何分、躾のいかぬ子どもで。どうか、ご無礼お許しください」
「いや。なかなかの傑物じゃないか。名前はあるのかね?」
面白がった皇帝が子どもに声を掛ける。子どもは言葉に詰まり、先程の勢いはどこに行ったのか黙り込んだ。それに居並んだ騎士たちの間から、忍び笑いが波を打つように漏れる。子どもは機嫌を損ねたかのように頬を小さく膨らませた。それに総長は小さく溜息を吐き、名乗るように促すと、子どもは膨れ面のまま嫌々、口を開いた。
「…マリア」
「もう少し、大きな声で頼むよ」
皇帝の言葉に、子どもは自棄になったように口を開く。
「マリア、だ!!可笑しければ笑え!!」
それが、神聖ローマとマリアの出会いだった。
マリアの正しい名前は「聖母マリア病院修道会」。最近、騎士見習いになったばかりだという。
「マリア」
「何だよ」
子供同士、気が合うだろうと余計な皇帝陛下の気遣いのもと二人きりにされた教会の庭。ぷらぷらと前を歩くマリアに神聖ローマは声を掛けた。
「どうして、お前は国になりたいんだ?」
「そりゃ、お前、生まれたからには名を残したいじゃねぇか」
「…それだけか?」
神聖ローマの言葉に赤い目を瞬かせ、マリアはずかずかと神聖ローマの元へと歩み寄った。
「…オレはどういう訳か、領土も民もないまま生まれた。…ここに集っているのは、行く場所を失くしてここに辿り着いた者たちばかりだ。そして、名も無きオレに奴らは名を与え、オレに存在の意味をくれた。だから、オレは奴らに報いらなきゃならねぇ」
「…それで、国なりたい、か?」
「おう。どうやったら、なれるんだ?」
国となれば、苦労が苦悩が、どうしようもないジレンマが付き纏う。追えども、愛しいと想う者は腕をすり抜け逃げてゆく。守りたいと思う。守るために手に入れなければと思う。でも、それをあの子は拒むのだ。悲しそうな顔をして。
そして、この身は教皇と皇帝の終わりの見えない繰り返される政争と内紛に、徐々に疲弊している。
「…国に」
自分はどうして国なったのだろう。民族を率い、永住の地を求め北上したゲルマンは既に亡く、その落とし子だという自分は何なのだろう?…果たして、自分は最初から領土を、民を持った国であったろうか?領土は諸邦の選帝候が支配している。その上にただいるだけの自分は、果たして「国」であるのか。
「神聖ローマ?」
赤い目が自分を見つめる。神聖ローマは視線を伏せた。
「…国になって、お前はどうするんだ?」
「んー、国なったらか。何にも考えてねぇけど、夜中に異教徒の襲撃に怯えたり、あっちこっち野営することなく、定住出来るようになったらいいなって思ってる。何より国になったら、みんなを守れるだろ?」
マリアの言葉には端々にまだ見ぬきらきらとした希望が見えた。それを神聖ローマは眩しげに見やり、目を細めた。
「…んでさ、総長の話だとさ、神聖ローマ、お前の上司がオレの上司の上司になるかもしれないんだ」
マリアの言葉に神聖ローマは顔を上げる。マリアはにかっと笑った。
「そしたら、お前がオレの上司だよな?…オレはまだ見習いだけどよ、いつか立派な騎士になったら、お前を王だと思って仕えってやってもいいぜ!」
「…いつの話になるか解らないな」
「すぐに決まってんだろ!ケセセ!」
不可思議な笑い声を立てて、快活に笑うマリア。それにつられたように神聖ローマの口元にも笑みが浮かぶ。
「…約束だぞ。マリア」
「お前こそ、オレをちゃんと騎士として取り立てろよ!」
その約束は果たされることはなかった。
その後、マリアはハンガリー、ポーランドと流れ、ポーランドの北の地を手に入れ、ドイツ騎士団、プロイセンと名を変え、小さな公国となり、マリアは国になるという願いを叶えた。
それなのに、自分はどうだ?
もう、既に死に体だ。
このまま、無様に永らえていくのが生きていく意味だとするならば、何と意味のない生だ。
ああ、もう一度…。
もし叶うならば、もう一度…。
あの子にも、マリアにも、相応しい王におれはなりたい…。
それが、叶わぬ何とも虚しい望みだと、解っているけれど。
「…ああ、この生が終わるならば、」
この黄昏に染まる赤の鮮烈なる刃に心臓を貫かれたい。
「もし、叶うならば…」
次の生などあるわけがない。死ねばそれまでだ。それでも、願い望む。
闇を裂いたその先にある夜明けの光の先、あのきらきらと美しく光る赤のコランダム。
『…約束だぞ。マリア』
『お前こそ、オレをちゃんと騎士として取り立てろよ!』
この生を、今一度、やり直すことが出来るだろうか。
叶うならば、マリア、お前と一緒に…。
1648年10月24日
冬の気配が忍び寄る曇天の空の下、各国の王が集い、条約が締結された。
自分への死刑宣告書等しい調印書に、皇帝がサインを印すのをぼんやりと神聖ローマは見ていた。紙面から、尖ったペン先が離れるのと同時に、心臓を穿った見えない剣が引き抜かれた。
…ああ、これで、楽になれる。
遠のいていく意識。…そう思った。
でも、剣は神聖ローマの心臓を完全に貫いていたわけではなかった。
まだ、死ねない。…あの子と。
『ローマになっちゃ、だめだよ!!』
戦いが終わったら、あいに行くって…。
『まってる、まってるよ。いっぱい、おかしつくってまってるね!』
…やく…そく…した、んだ。
強い想いが、神聖ローマを引き止める。それに、神聖ローマは足を止めて、振り返った。
スカートの裾が揺れる。涙に濡れた頬。
おれはお前を泣かせてばかりいるな…。
ごめん。やくそく、守れなかった。このさき、果たせそうにない。
…イ…タリア、ごめんな…。
次第にぼやけて失われていく輪郭。崩れておちて、白い靄が神聖ローマの視界を遮った。
…おれは、だれに謝ってるんだろう?
泣きながら、おれに手を振ってくれたあの子は誰だったのかな?
徐々に抜け落ちていく記憶。曖昧になる。自分が何者だったのかさえ、解らなくなっていく。
…それよりも手が冷たい。身体が冷たい。寒い、寒いな。
ここはどこだろう?
辺りを見回す。白いばかりで何も見えない。そして、酷く冷たく寒い。神聖ローマは外套の襟を掻き合せた。靄が徐々に色を変え、足元から黒く染まっていく。
…あぁ。…死ぬのか。
そう理解した瞬間、自分を繋ぎとめていた何がが、
ふつりと切れる、
音、
…が、した。
「…しぬのか。おれは」
やっと…。安穏の心地に神聖ローマは呟く。
「何を言っているんですか。まだ、神聖ローマ帝国は存在しているではありませんか」
呟いた言葉に返事が返ってきて、まだ、自分のそばに侍る者がいたのかと思う。こんな価値なき、死んでいく国に寄り添う者がまだいたか。神聖ローマは小さく笑った。
「……そんなもの、はじめからなかったんだ」
そう、おれははじめから存在してなかった。そこにただ、在っただけ。マリアとは違い、望む前に全てを差し出され、それを支配していくために神のようであれと名を与えられた。かのローマ帝国のようにあれと、過去の栄光と幻に皆が夢を見ていたんだ。
「何を馬鹿なことを…」
「……はやく、らくになりたい」
今はそればかりを願う。もう何も望まない、願わない、祈らない。…もう、思うすべてが遅く、泡沫の泡のように消えてしまった。これが悪い夢ならもう覚めなければ。もう、何も解らない。思い出せない。ああ、意識が拡散していく。この世界は酷く、苦しい。どうして、この世界はおれにはやさしくしてくれないのだろう。
辛い。痛い。悲しい。寒い。冷たい。痛い。…苦しい。
「…ころしてくれ」
誰か、今度こそ、本当にこの役に立たない心臓を完全に止めて、終わりにしてくれ。おれを滅ぼしてくれ。もう、何もかもが辛いんだ。
「……ま、りあ、おまえなら、ひとお…いに…おれ…らくに…てくれるだ…うに」
戦うために生き、奪うことでしか生きられぬ聖母の名を持つ、騎士よ。
どうか、この哀れな亡国に祝福を。
この身の全てを、お前が奪い、そして、おれを殺してくれたらいいのに…。
ああ、夕陽が心臓を貫く。
濁ったその瞳に映った斜陽は赤く延び、心臓に落ち、神聖ローマを照らす。神聖ローマは一度、微かに笑むとゆっくりと目を閉じた。
暗い黒い森。
鬱蒼と繁る木々の間から、一筋の光が延びる。その光は森の奥を照らし、静かに眠っていた子どもの目蓋をそっと撫でた。
子どもは光の眩しさに目を開く。そして、立ち上がると光が導くままに歩きはじめた。
オワリ
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