欲しいものがずっとあった。でも、それが決して俺の手には入らないことを知っていた。それでも、縋るように、ずっと望んでいた。欲しくて堪らなかった、あの穏やかで美しく切り取られた絵の中に閉じ込めたような幸福の風景。あの子に差し出された兄様の手が俺に向けられないだろうかと、あの子に見せる笑顔をほんの少しでいいから自分に向けてくれたらいいのにと。そんなことばかりを思いながら、遠くからその光景を見つめていることしか俺には出来なかった。
俺の手は奪う為に、剣を振るう手だ。そんな汚れた手を兄様が取ってくれることなど、笑ってくれることないのだ。…俺があの子だった良かったのに…。兄様は俺に笑いかけてくれるのに。そうだったら、ずっと、兄様の傍にいることが出来るのに。…本当に、そんなことばかりを思いながら、いつの間にかひとりになってしまった兄様の背中を見つめ、俺なら何があっても兄様のそばにいてやるのにと思ってた。時々、キャンバスに描かれたあの子を幸せそうに笑みを浮かべて見つめている兄様があの子ではなく俺を見てくれればいいのにと。
兄様のそばにいたいと想いだけが自分の中で肥大していく。
俺がもっと強く、大きくなれば、兄様のそばにいることが出来る。きっと、兄様は俺を見てくれる。
そう思い込んで、信じてた。
信じてた。信じていたのに、どうして、こうなってしまったんだろう?
俺の手は奪うことしか結局出来なかった。殺すことしか出来なかった。
あなたが棺に横たわるのを、どうして、見ないといけなかったのか。
強くなったはずだったのに、結局、守ることもできなかった。それどころか、最後には殺してしまった。自分を責め、泣いて、神に祈り、目を閉じたまま動かないあなたに縋っても、壊れてしまったものは元には戻らない。
そして、無情に時が過ぎ、あなたは永い眠りから目を覚ました。そして、その青い瞳に漸く俺を映してくれた。
どうして、あなたはあの子ではなく、俺を選んだのだろう?
俺には解らない。でも、俺は今度は間違わない。俺はあなたの糧になる。ずっとあなたを想いながら生きてきたこの身を食らって、大きくなればいい。
俺はあの美しい光景に混ざりたいなどと、二度と望まない。あなたに愛されたいともう願わない。
ただ、この身の全てをあなたに食われたいのだ。
食らい尽くした最後には、どうかその手で一度だけ、抱きしめて欲しい。
それだけが、俺の望みなのです。
鎮魂歌「献身」
あの手を取っていればと、後悔してもすべてが遅かった。ただ、ただ、あの日交わした小さな約束が果たされる日が来るのを待ち望んでいるだけでは何も変わらないのだと、君が死んだと訊かされた日に、おれはやっと気がついた。
嘘だと、信じないと叫んだって、君がこの世界からいなくなった事実は変わらなくて。
あの春の日、君がはにかみながら受け取った花冠の花の香りと触れた指先の温かさばかりを思い出す。泣いても叫んでも、祈っても、君は帰ってこない。おれを迎えに来てはくれない。
君が傷つくのを見たくなかった。(本当は自分が傷つくのが怖かっただけ)
君が壊れていくのを見たくなかった。(きっと、おれには耐えられない)
弱くて、醜いおれをきみは好きだって言ってくれたのに、ずっとずっと好きだったって言ってくれたのに。おれは自分が傷つくのが怖くて、君に嫌われるのが怖くて、結局、逃げてしまった。
「絶対」なんて、言葉、どうして信じてしまったんだろう。
長く続いた戦争が君の体を削っていくのを、見ていることしか出来なかった。何も、おれには出来なかった。してやれなかった。おれは弱いから…、…って、ひどいいい訳だよね。
君は死んだ。
でも、世界は再び、君に命を与えた。
おれはね、君が僕にしてくれた約束を果たす為に、目を開けてくれたんだって思った。何て、傲慢なんだろう。何もしなかった、見ているだけの傍観者だったくせに。
世界は回る。
目を開けた君は僕なんか、見てなかった。全てを忘れてしまっていた。そして、ずっとそばにいてくれる彼を選んだ。
当然だよね。おれは何もしなかった。何も君にしてやれなかった。
これが、罰なんだ。でも、これで良かったんだ。おれは弱いままだけど、今度はずっと何があっても、君のそばにいるよ。…友達だからね。
だから、また、おれに笑顔を見せて。
あの日にはもう二度と戻れないけれど、君とここから。
それだけが、おれの望みなのです。
鎮魂歌「友愛」
世界は暗く狭く閉じていく。苦しくて胸が詰まる。どんどん、暗くすべてが沈んでいく。いつからこんなに、世界は色を失くしてしまったのだろう。前は鮮やかな美しい色をして、光が満ちて、眩しいくらいだったというのに…。
真っ暗な中、目を見開いて、辛うじて日の柔らかさを感じるたびに、あの子を思い出す。暖かい春のひだまり。お菓子の甘い香りと小鳥の囀りの様な歌声。そのときの情景や、あの子が着ていた服の色、エプロンに刺繍されていた小さな花の形まで細部まで思い出せるのに、あんなに大好きだったはずのあの子の顔はぼやけて、輪郭さえ満足に結べない。あの子はどんな顔をしていただろうか?
あの子は怒っているだろうか。約束を守れなかったことを。
お菓子をいっぱい作って、待っているからねと何時までもあの子はおれに手を振っていた。
あの子は許してくれるだろうか、約束を破ってしまうことを。
最後でいいから、あの子にもう一度、会いたいと思う。それが、叶わぬ願いだと知っている。
でも、もう、いい。…もう、いいんだ。あれはきっと、短い夢の中のことだったんだ。おれの中で、一番、幸せな…。
…あの子の顔はもう思い出せないのに、お前の赤だけは鮮明だ。
お前は、いつも遠くから、おれとあの子を見ていたな。
振り返れば、お前がいつも縋るようにおれを見ていて、こちらが声を変えようとする前にお前は背を向けてしまったいた。
寂しかったのか?
ずっと、お前はひとりだったな。国ではなく、ひとにも属さない異端の、遥か遠く聖地に生まれた聖母の名を持つ子。強がりながら生きて行かねば、お前の命は蝋燭に灯った炎よりも脆弱だった。…お前は成り立ちこそ違うが、おれに似ている。おれは国という形を持っていたが、実質、国ですらなかった。…はは、本当におれもお前もよくここまで生き延びたものだ。
…何故、泣く?
そんなに泣いては、赤い目がもっと赤くなってしまうぞ。もう、泣くな。泣き止め。おれは幸せだった。お前がおれをずっと好きでいてくれたことを知った。最後の最後まで、おれの手を握っていたのはお前だった。誰かに想われることは幸せなことだと、お前が教えてくれたんだ。
ああ、仕方のない奴だ。外套がお前の涙でぐしょぐしょだ。
どうしたら、お前は泣き止んでくれるんだ。…ああ、でも、もう、おれはその涙を拭いてやることが出来そうにない。抱きしめて慰めてやりたいがもう、時間がないようだ。
寂しがり屋で意地っ張りで、強がりばかり言うマリア。
もし、叶うならばお前がおれを最後に救ってくれたように、お前の孤独を救ってやりたい。
それが、最後のおれの望みなのです。
鎮魂歌「愛惜」