フリードリヒは部屋の前に立つと、部屋の鍵を開けた。この部屋は外側からしか開けられない。
(ふむ。私の身体は実体化しているらしいな)
いつもはふわふわと軽い身体が少しだけ重い。ふっと廊下の硝子窓に映る自分をフリードリヒは目に留めた。
(…三十を過ぎたばかりか。サンスーシを施工し始めた辺りか。随分とまあ若返ったものだな)
そこには、若い頃の自分が立っている。暗褐色の緩くウェーブを描いた髪を後ろで緩く纏め、プルシャンブルーの軍服に袖を通し、こちらを青い瞳が見つめている。…この頃の自分はプロイセンをまだ疎ましく思っていた気がする。
(…何時頃から、私はあの国を愛そうと、愛するようになったのだろうな…)
フリードリヒは苦笑を浮かべドアを開く。目の前には窓。明るい陽光の差し込む部屋にフリードリヒは目を眇めた。そして、室内を見回す。ベッドに腰掛けたプロイセンがこちらをじっと伺っていた。
「…誰だ?」
誰何する問いかけには答えず、フリードリヒはプロイセンを見やる。…いつぶりだろうか。こんなに間近にプロイセンの顔を見るのは。
(…ああ。変わってしまったな)
淡い蜂蜜色をした金色の髪は今や白金に褪せ、血色の良かった頬は紙のように白い。腕の細さが初めてプロイセンと出会った頃に重なる。
(…お前の目の色も変わってしまったのだろうか?)
黒い目隠しに覆われ、その目を見ることは出来ない。赤いプロイセンの目が子どもの頃は酷く怖かった。異端の者、忌避すべきもの、自分の人生を狂わせる危険な色をしていた。その目を自分はいつから怖いと思わなくなったのだろう。宝石箱に収められたどの宝石よりも美しい赤。その目が思いの他、目まぐるしく色を変えるのを飽きもせずに眺めていたことをフリードリヒは思い出す。
「……誰、何だよ?」
怯えたような声で再びプロイセンが問う。プロイセンがこうして怯えを自分に見せるのは二度目だ。フリードリヒは無言のまま、テーブルにそっと持参したきたフルートのケースを下ろし留め金を外した。その音にびくりとプロイセンの肩が震えた。それに気付かないフリをして、フリードリヒはフルートを組み立てると構える。
(…ひとに聞かせるのは久々だな。お前は聴かせる度に寝入ってしまっていたが)
懐かしい思い出に笑みを浮かべ、フリードリヒはふっと息を吹き込む。部屋に満ちるフルートの音。その音色に、旋律に、プロイセンの唇は震え始めた。
「…っ、嘘だ!!お前、誰なんだ!!どうして、お前、親父と同じ…!」
ガタッ。音を立てて、立ち上がったプロイセンにフリードリヒは演奏を止めた。ふらふらと立ち上がったプロイセンが腕を伸ばしてくる。
「…これは嘘だ。誰かが俺を騙そうとしてるんだ。…だって、お前のハズがねぇ。…フリッツ…」
確かめるように輪郭を撫で始める手のひら。その手にフリードリヒは目を細め、その手をそっと包んだ。
「私が誰か、お前が一番良く知っていると思うが」
穏やかにフリードリヒそう問えば、プロイセンはむずがる子どものように首を振った。
「お前は死んだ。ここにはいないはずだ。…だから、」
それでも頬を撫でる手のひらは輪郭を確かめるように、動き、プロイセンは小さく息を吐いた。
「…嘘だ」
「嘘なものか。お前は私を間違えたりはしないだろう。私もお前を間違えたりはしないぞ。プロイセン」
「…だって、」
「神の気まぐれらしい。そうなんだろうと私は思っている。お前は毎日、私のために祈りを捧げてくれているな。その祈りが届いたのだろう。そう、思えばいい」
「そんな、都合のいい話あるかよ!!…って言うか、何で知ってるんだ!!」
「お前を私は見守っているからな。最近、日本と言う国に進められて、ぶろぐ…とか言うものを始めたそうだが、見ることが出来ないのが残念だ。オーストリアやハンガリーとは仲良くやっているようで安心したよ。ロシアに居たときは寒かっただろう?私のマントを貸してやれたら良かったんだが。イギリスやフランス、スペインとも懇意にしているようだな。でも、飲みすぎは感心しないぞ」
「…な、」
「それと…、…お前には会えたなら言いたいことが山のようにあったのだが、こうしてみると中々、思い出せんな」
「お、親父!」
「なんだね。プロイセン」
フリードリヒはプロイセンの褪せた金の髪を梳くように撫でる。それに、じわりとプロイセンの両目を覆った黒い布が滲んだ。
「…本当に親父なのか?…だったら、俺、もし、お前に会えたら謝りたいことが…」
「謝りたいこと?…何かね?」
穏やかに問いかけられ、プロイセンは一度、ぎゅうっと唇を噛んだ。そして、震える唇を開く。
「…俺…、お前が俺に与えてくれたものを、俺は全部、弟にやっちまった。…今、プロイセンはこの世界にない。…全部、弟に俺のものをやったことを後悔はしてない。…でも、お前は色んなものを犠牲にして俺に色々してくれたのに、俺はお前に何も与えてやれなかった。奪うばかりだった。…今でも、もしあのとき俺が、お前を…」
…イギリスに亡命させていたら…、自分はもう亡き者だったかもしれないが、フリードリヒは王ではなく人として、幸せな一生を過ごせたのではないだろうかと…。プロイセンは思う。この王なくして、自分はいなかった。でもその為にこの王は人が望む安穏な幸せを手にすることは出来なかったのだ。
「プロイセン」
フリードリヒはプロイセンの言葉を遮る。雷に打たれたようにプロイセンは口を噤んだ。
「プロイセン、あのとき、もしもは有り得なかった。何をしようと私はお前からは逃げられなかったのだ。お前が私の運命だったのだ。それをどうして、避けて通れよう。私は後悔はしていない。お前と共に戦場を駆け、過酷な七年間を乗り越えたこと。サンスーシの庭でお前にフルートを聴かせてやったこと、政務に追われた日々…色々とあったが、私はお前と共に在れたことを不幸だとは思っていないし、後悔してはいない。…だから、顔を上げなさい」
俯いた顔を恐る恐るプロイセンは上げる。フリードリヒはその頬を撫でた。
「…親父」
「…プロイセンと言う国は確かになくなってしまったが、お前がまだここにいるのは、プロイセン、お前がまだ人々の心に生きているからだ」
布に染み込みきれず溢れ出した雫が白い頬を滑る。その頬をフリードリヒは拭った。
「私はそれを嬉しく、誇らしく思う」
その言葉にプロイセンは声を上げて慟哭した。この世界に産まれて落ちて、初めてと言ってもいいほど、大きな声を上げて泣いた。フリードリヒは何も言わずにただ、子どものように泣くプロイセンを抱き寄せる。プロイセンの回された腕がぎゅうっと軍服のコートを掴む。その手をあやすように撫でてやり、一回り小さくなったプロイセンの中に自分が今も色褪せることなく存在し続けていることを、フリードリヒは嬉しく思った。
「…やれやれ、大雨が降ったでもあるまいに私はびしょ濡れだよ。プロイセン」
「…うるせー。大体、親父がいきなり来るからいけないんだ」
泣き過ぎて枯れた声が不服げにそう言葉を返す。…フリードリヒは肩を竦めた。
「チチチ!」
小鳥の鳴き声が聴こえる。それと同時に自分の身体が軽くなっていくのを感じ、フリードリヒはプロイセンへと向き直った。
「…どうやら、時間のようだな。…プロイセン、久々にお前に会えて嬉しかったよ」
「え?」
「いつも、空からお前を見守っている。…最後に、あまり皆に迷惑をかけないようにな」
「余計なお世話だ!」
ぷすっと頬を膨らませたプロイセンにフリードリヒは苦笑すると、プロイセンの頬に親が子に与える有り余る程の愛情のキスを送った。
「親父!!」
それと同時にそば近くにあったぬくもりが消失していく。プロイセンは最後に残ったぬくもりを握り締め小さく呟いた。
「…ありがとな。…親父…」
≫日曜日に続く。