どうにもならないことを嘆くのをやめたのは、いつだったか。
神に祈り、叫び、怒り、縋ってみても、この心が救われたことなど、ほんの少しの間だけだ。
それでも祈り続けていれば、いつかそれは神の耳へと届くのだろうか?
でも、もう疲れた。
なあ、もういいだろう。許してくれ。
この身に安らかな眠りを。
この身体が地に還らんことを。
どうか、願わくば彼のひとのもとへ、魂は還ることを。
馬車馬のように働かされ、局を出たのは九時も過ぎた頃。空き腹を抱え、プロイセンは帰途に着く。
(何か、食うもんあったけ?)
アパートの寒い部屋。冷蔵庫の中と棚の中に食材があっただろうか…、二・三日前に買ってきた黒パンがあったような気がする。もう硬くなっているだろうが、食えなくないだろう。…吹き付ける寒風にプロイセンは褪せたマフラーを引き上げ、家路を急ぐ。アパートの前に辿り着けば、自分の部屋の前、蹲った人影が見える。プロイセンは足を止め、人影を注意深く、見やった。
「…遅い。凍え死ぬかと思ったわ」
プロイセンに気付き、顔を上げたのはハンガリー。それにプロイセンはぎょっとした顔をして、ハンガリーを見やった。
「何で、お前、こんなとこにいるんだよ?」
「そんなことどうだっていいでしょ。早く、ドア、開けなさいよ!」
睨まれて、プロイセンは溜息を吐いて、ドアを開く。開いたドアから、ハンガリーは身体を滑り込ませるように部屋へと入る。その後を追い、プロイセンはドアを閉めた。ハンガリーは真っ先に部屋の奥にある年代物のストーブに火を点ける。点るオレンジ色にほうっと小さく息を吐くと頭からすっぽりと被ったショールを肩へと滑らせた。亜麻色の緩く波を描いた髪が零れるのを見やり、プロイセンはケトルを火に掛けた。
「…で、何の用だ?」
生憎と来客用の上等なカップなどない。少し前に縁の欠けてしまったカップと最近マーケットで買ってきた新しいカップと紙袋に入ったままの黒パンを取り出し、プロイセンはパンを齧る。案の定、硬くなっている上に不味いが贅沢は言えない。戦時中を思えば、黴の生えていないものを口に出来るだけまだ恵まれている。もそもそとそれを齧るプロイセンをハンガリーは哀れなものを見るように見やった。それに、プロイセンは視線を上げた。
「お前も食う?硬いけど」
「いらないわよ」
ハンガリーの視線にそう訊ねれば、冷たい言葉を返され、プロイセンは空きっ腹を満たすためだけに不味いパンを齧る。お湯が沸き、プロイセンはパンを齧るのを止め、コーヒーの粉末をスプーンでひと掬いし、カップにお湯を注ぐと、欠けていない方のカップをハンガリーへと押しやり、自分は欠けたカップに口をつけた。
「…不味い」
カップを手に取り、口に含んだハンガリーが眉を寄せ、プロイセンを睨む。睨まれたプロイセンはハンガリーを睨み返した。
「うるせー。贅沢言うな」
コーヒー豆など高級品過ぎて市場に出回ることなどなく、手に入るのは代用コーヒーのみだ。そして、嗜好品である品だけに代用品でも手に入るだけまだマシだ。この齧っている黒パンも長蛇の列に長時間並び、漸く手に入れることが出来たのだ。調子の良かった経済は徐々に綻び始め、物資の流れは著しく滞り、悪化の一途を辿るばかりだ。その影響は既に身体に出始めている。長いこと生きているが、じわりじわりと真綿で首を絞められるような具合の悪さは経験したことがない。プロイセンは後味の悪いコーヒーを口に含むと息を吐いた。
「…ねぇ、アンタ、どうするの?」
カップをハンガリーの細い指先が暖を取るように包む。それを見つめながら、プロイセンは小さく齧ったパンの欠片を租借し、不味いコーヒーで胃へと流し込んだ。
「…何を?」
「このままでいいの?」
「なるようにしか、ならねぇだろ」
プロイセンは視線を上げ、具体的な言葉が出る前に、ハンガリーの口を手のひらで覆い、口元に指を立てる。この部屋は盗聴されているのだ。盗聴の内容がロシアに伝われば色々と面倒だ。ハッとしたように瞬いた草色の瞳を見やり、プロイセンは手のひらを外した。
「…そうね」
ハンガリーは意図を察して吐息するとカップを下ろす。それと同時にストールが床へと落ちる。それをプロイセンは拾い上げた。
「何か、寒くて、頭が上手く回らないわ」
「今夜は一番の冷え込みになるらしいぜ」
「…そう」
プロイセンの頬に伸びてきたハンガリーの頬を滑る指は温かい。触れるように合わさった唇も。
「…冷たい」
「内側から凍えてるからな。…温めてくれよ」
温もりを求めて、ハンガリーの体を抱く。柔らかな身体は驚く程、温かい。その温もりに縋るようにプロイセンは露わになった白い首筋に顔を埋めた。
白み始めた部屋。
捲れたブランケットから忍び込む冷気にプロイセンは身を震わせ目を開ける。視界にぼんやりと映る白い背中に昨夜のぬくもりを思い出して、縋ろうと伸びる腕を止める。白く細い指先は床に落ちた衣服をひとつひとつ拾っていく。長い髪を掻き上げ、背中を露わに後ろ手に回り、もどかしく動く指先。プロイセンは身支度を手伝おうと体を起こした。背中に冷やりと触れ、ホックを止めた指先に気付いて、ハンガリーは振り返った。
「ありがと」
「どういたしまして。…帰んのか?」
ぼんやりと靄がかかったかのようにはっきりしない頭。ハンガリーと寝た後はいつもこうだ。曖昧な夢の中に未だ取り残された気分になる。
「…アンタの顔、見たかっただけだし…。…あ、昨日渡すの忘れたけど、バスケットの中、救援物資よ。温めて食べて」
髪を掻き上げたハンガリーを見やり、プロイセンはうつらと落ちそうになる目蓋を擦った。
「…ダンケ」
「どういたしまして。…じゃあね」
「…ああ」
身支度を済ませたハンガリーはストールを纏うと、部屋を出て行く。ぱたりと乾いた音を立ててドアが閉まる。それと同時にプロイセンはベッドに突っ伏した。夜明けまであと少し、隣に僅かに残る甘い香りと温もりに縋る。
寂しさを埋めるための交わりは、いつだって感傷を深くする。逢いたくても逢えない相手を想うことに腐心することがどれだけ虚しいと解っていても、ここに想う相手はいない。
どうにもならないことで、嘆くのは随分、昔に止めた。広がっていく隙間をお互いどうにかこうにか繕って、埋めていく以外に自分を保持する術もない。
手近にあるもので、妥協する。
それがもっとも簡単な慰めの方法だ。
解りすぎるほどに、お互いを知ってしまっているから、傷を舐めあうには尚更、丁度いい。
プロイセンは目を開ける。
目覚まし時計は六時前。
起き上がり、のろのろと服を身に付け、温もりの逃げた身体を甚振るように冷たいシャワーを浴びる。
ケトルを火に掛け、ハンガリーが置いていったバスケットの中身を漁る。小さなスープ鍋の蓋を開ければ、パプリカを使った真っ赤な具沢山のグヤーシュ。思わず腹が鳴る。そのスープ鍋も火に掛ける。
「…ん?」
バスケットの底、紙片があるのに気付きプロイセンは紙片を広げた。
『夏になったら、ショプロンにピクニックに行きましょう。お弁当は私が作ってあげる』
(…ピクニック?…ショプロンって、坊ちゃんと国境接してるとこじゃねぇか。…何、考えてやがる…ハンガリー…)
そう思いつつ、プロイセンは紙片をコンロの火に翳す。紙片はすぐに灰になる。
「…そうか、帰るのか…」
彼女は裂かれた愛する男の元へと帰ろうと動き始めたのだろう。そして、それを伝える為にここに来た。もう、彼女は二度とここへは来ないだろう。…それで、いいのだ。このままだとすべてが駄目になってしまう。
俺も、帰ろう。
全てを西に還して、渡して。
そして、いい加減、終りにしようじゃないか。
だから、早く、戻らなければ。
ひとつに戻らなければ。
歪みは広がり、収拾のつかなくなる寸前まで来ている。国民が声を上げるだろう。東から、西への流れは止まらなくなる。これからその動きは更に加速していくだろう。
ああ、あなたのところにもう少しで、俺も逝けそうです。
身体のどこかが小さく軋みを上げる。それにプロイセンは薄い笑みを浮かべた。
オワリ