プロイセン・クーデター後、目に見えて、兄は衰えた。ドイツは執務室、机を挟み対峙したプロイセンに一通の書類を差し出す。受け取った書類を読んでいく疲弊し澱んだ赤は、大きく見開かれ、時を止めた様に静止した。
「…お前の上司は本気で、こんな馬鹿な命令をだしたのか?」
澱んだ赤が呟くように、問う。
既に国としての枠組みは形骸化し、すべてをドイツに食い尽くされたプロイセンに残っているのは、「人」の体だけとなった。
色素を失い、淡い金色は抜け落ち、白金に輝く髪。血の色が一層、鮮やかになった双眸。日に日に存在意義を失い衰えていくプロイセンはひどく美しかった。でも、この目は何だろう。この汚く濁った赤はまるで、汚れ乾いた洗っても落ちない血の跡のようだ。…ドイツは思う。それでも、微動だにせず、寸分の隙もなく着詰めた濃紺の軍服に身を包んだプロイセンは美しく、禁欲的で、壊してしまいたいほど無垢で清らかだった。
机上のたった一枚の紙に落としていた視線をプロイセンは漸く上げ、ドイツを見やった。
『プロイセン州から、ドイツ人以外の者の追放を命じる。即刻、命令に従い実行せよ』
有り得ない命令だった。薄々、強制執行されるだろうことはユダヤ人狩りの始まった現状を省みて、解っていたことだったが、どこか楽観していた。こんな馬鹿な政策が罷り通る訳がない。東プロイセンまでは及ばないだろうと。…プロイセンは唇を噛む。今までの自分の歴史すべてが否定されたような気がした。
「…俺が「俺」である理由を知って、お前の上司はこの命令を出したのか?」
「ja」
短いドイツの返答にプロイセンの指先はがたがたと奮え、机上の命令書がぐしゃぐしゃになって、節くれた細い指を包む黒い革の手袋がふっと緩む。何かを諦めるように、プロイセンは息を吐いた。
「…俺がそんなに気に食わないのか。どうして、お前の上司はこんな馬鹿なことを考える?それを何故、誰も止めない?ユダヤ人もポーランド人も、ルーマニア人も人種なんて関係ない!お前の国民なんだぞ?お前、解ってるのか?!」
見据えた赤に、ドイツは冷たく言葉を返した。
「俺の国に、余所者はいらない」
プロイセンの喉がひゅっと鳴るのをドイツは見つめる。苦痛に歪み、唇を噛んで、プロイセンは怒りを堪えようとしている。血の気の引いた薄い唇から、ふつりと赤が零れる。それを美しいと思う。その血をこの舌で味わいたいと。ふと湧いた欲望にドイツは青い目を細めた。
「…俺も余所者だ。俺も追放されんのか」
憎悪を帯びて、上がった眼差し。それにぞくりと背筋が粟立つ。底知れぬ歓喜に飲み込まれそうになる。彼は確かに衰えたが、その目の強さを誰が奪うことが出来るだろう。ドイツはプロイセンを見つめた。
「あなたは余所者ではないだろう。俺を育ててくれた。俺の礎になった。父なるプロイセン。あなたは俺の誇りだ。あなたを俺が追放する理由はない」
青を見つめ、赤は殊更に深く黒く澱んでいく。そして、双眸は伏せられる。
「…ハッ、…最悪だ。俺が国であったら、こんな馬鹿なことは罷り通らなかっただろう。俺はお前を国にすべきではなかった」
弾圧され他国から逃れてきた移民と亡命者、異教の民を受け入れることで、プロイセンと言う国は大きくなった。人がいなければ、プロイセンは「国」と言う形を保てない。その元となった者達を追放することはプロイセンの根幹を激しく揺るがした。
どうして、こうなった?何を俺は間違えた?
今まで歯車は上手く回っていた。
俺が望んでいたことは、何だ?
「言論の自由を保障され、誰が何を信じてもいい。差別も偏見もない、「人」のための「国」だ!」
秩序はその為に有り、法による安全と良心に従って行動することが出来る国を、ひとは望んでいた。
「軍隊」は「国家」を維持するための、道具だ。「軍隊」が動かす「国家」に秩序も安全も良心も何も保障はされはしない。
今のこの状況は、何だ?
一人の狂った男の狂言で、この国は良心を捨てた。差別偏見が満ち、国民は皆、俯き、極端な言論の規制に息を潜めてしまった。
ドイツ帝国。
俺の理性と理念を受け継ぎ、この地に根付いた素晴らしい「国」へ発展していくのだ。それを信じていた。それを俺は支えていくのだ。でも違った。あの晴れ晴れしいドイツ帝国戴冠の式の前の夜、最後となった俺の王は言った。
「明日はわが人生でもっとも悲しい日だ。古きプロイセンを葬らねばならないのだから」
あのとき「プロイセン」は死んでしまったのだ。終焉を望んだのは自分だ。だが、こんな未来を望んだ訳ではなかった。だがもう「プロイセン」が「ドイツ」を止めることなど出来はしない。
…これから、何人もひとが死ぬ。
今までにない惨事が繰り広げられる。
俺の血肉を糧に成長したこの国で。
目の前に突きつけられた絶望。
プロイセンは立ち眩み、机に思わず手を付き、崩れ落ちそうになる我が身を支えた。
…俺は何と言う、取り返しの付かない過ちを犯してしまったのだ。
「今の状況が気に食わないのなら、俺を殺せばいいじゃないか。そうすれば全て、あなたの思うようになる。あなたなら、そうすることが出来る。あなたは俺の半身だ。あなたが「ドイツ」になることは容易い」
プロイセンに殺される。それは何と昏く甘美な幻想だろう。ドイツの青は酔うように細められた。それを見やり、プロイセンは唇を歪めた。
「…ハ。…そんなことはしてやらねぇよ。俺は「ドイツ」にはならない。俺は「プロイセン」だ」
この名を俺は誰よりも愛している。この名以外の別の名など、もういらない。必要ない。…そう言って、上がった赤は澱みを払い、ドイツの青を射抜いた。
「この戦争は負ける。そのとき、お前は自分の犯した罪の重さを知ることになるだろう。その罪の代償にお前は大事な大切なものを失うことになる。泣いても叫んでもそれは決して戻ってはこない。…盲信を信じる愚か者に神は決して祝福を与えはしない。お前は嘆きの淵に立ち続け、贖えない罪を悔い、悲しみ続けることになるだろう」
プロイセンは告げ、視線を伏せ口元に悲しい微笑を浮かべた。
「罪科は俺にも負わされる。仕方が無い。すべては俺の所為だ。そうすればいい。…俺の国は死んだ。ここはお前の国だ。好きにするがいいさ。…お前のことなど知らない。勝手にすればいい」
悲壮を滲ませ、プロイセンは息を吐くと軍人の顔へと戻った。
「…命令は実行すると、上層部に伝えろ」
「ドイツ」は「プロイセン」を必要としてない。ずっと昔に捨てられたのだ。どうして、今までそれに何故気づけなかったのか。…プロイセンは自嘲し、ぐしゃぐしゃになった書類を上着の内ポケットに仕舞い、すっと背筋を伸ばし、机上の制帽を手に取り深く被る。コートの裾があの勇壮で勇ましい戦場に佇む白と黒、黒鷲の軍旗を思わせるように翻る。大きな鳥の羽ばたきが鼓膜を掠め、ドイツはプロイセンを見つめた。その青をプロイセンは見つめる。その赤は酷く打ちひしがれた悲しい色をしていた。
「ドイツ、東部前線に志願し受理された。…お前と会うのは、今日が最期だ」
薄い唇が言葉を紡ぐ。その言葉をドイツは反芻し、瞠目した。
東部前線…侵攻してきたソ連軍と熾烈な争いが繰り広げられ、そこに赴くと言う事は死にに行く事と同じ意味を持っていた。
「…え?」
「…坊ちゃんによろしく言っといてくれ。多分、もう会うこともないだろうしな」
「何を言ってるんだ!兄さん!、東部前線に立つだと?そんな話は訊いてはいない!」
「言わなかったからな。お前に言えば止められる」
「当たり前だろう!俺にはあなたが、」
「黙れ!」
伸びて来たドイツの手をプロイセンは振り払う。見据えた赤い目は今までになく殺気を帯び、ドイツの言葉を封じた。戦場に赴かんとする黒鷲は眼光鋭くドイツを射抜く。それだけで、心臓が剣を突きつけられたかのように早鐘を打って響く。冷たい汗が背を伝う。それは今までドイツが今まで目にしたことの無い、苛立ちと侮蔑を含んだ憎悪を滾らせた双眸が剣の切っ先となって、ドイツに突きつけられた。
「もううんざりだ。お前にはもう付き合えねぇ。俺が、お前があるのはお前の上司が差別している移民や異教徒のお陰だ!そいつらを追放して築くものに神の祝福なぞ有りはしねぇ。…親父まで利用しやがって。親父はこんなことを絶対に望まない。「人」は「国家」にとっては「宝」だ。国が存続していくためには、「人」がいなければ駄目だ。お前はそれを切り捨てると言うのか?ゲルマン民族だけの「国」?そんなもの、糞食らえだ。そんな国は滅びちまえ!お前は俺を否定した。これ以上、俺がここに留まる理由も無い。これ以上のの屈辱を甘んじて受ける気も無い。…親父はお前の上司とは違う。一緒にするな!フリッツは「プロイセン」の王だ。「ドイツ」の王じゃない。それをこれ以上利用されるのも、「プロイセン」の名を辱められるのも御免だ。俺は死ぬ。今や、国としての基盤もねぇ。だから、俺はひととして死ねるだろう。これ以上、俺の歴史にオーストリアから送り込まれた悪魔に泥を塗られてたまるか!…だが、ベルリンをこの地を再び、踏みにじられるのは避けたい。だから、俺は東部に行く」
怒りに燃えた赤い瞳はぎらぎらと怯んだ青を見据える。
「…ああ、今思えば、これがオーストリアの俺への復讐なのかもしれねぇな。…因果応報ってか。ハハッ。…もうどうでもいい。俺はもうここには居たくない。…居場所もねぇ。ああ、あの晴れやかな栄光と誇りの中で死にたかった!!そうだったならば、俺はどれだけ幸せだっただろう!…でも、時は無情にも流れてしまった…」
すっと伸びて来た黒革の指先がドイツの頬を愛しげに撫で、落ちる。
「……お別れだ、ルッツ。さようなら。…俺のライヒ、本当にお前を俺は愛していた…」
苦痛に揺れ、慈愛に滲んだ赤がドイツの青を掠め、逸らされ、立ち尽くすドイツの脇を通り過ぎていく。
「兄さん!!」
靴音は振り返ることなく遠ざかって行く。ドイツはその後を追うことは出来ず、立ち尽くす。
愛していた。
過去形で語られた言葉。
さようなら。
別れの言葉がプロイセンの口から、紡がれることなど想像したこともなかった。
「…あなたは、俺の半身なのだ。そんな勝手を俺が許すとでも?」
盲目的なまでに愛していたのは、どちらだろう?
「…この戦争に負ける?…そんなことは有り得ない。絶対に有り得ないんだ!」
負けるはずがない。順調に自分は領土を広げている。必ず、この地に再び、心臓をひとつに双頭の黒鷲の帝国が築かれるのだ。兄と自分だけの理想の国が。
『ローマになっちゃ、だめだよ』
誰かが、囁く。
『おれは今度は迷わない。守るためにこの世界のすべてを手に入れる』
この世界を手に入れて、守るんだ。
「…何をだ?」
この手を今、赤い石は滑り落ちた。
この手に守りたいものは残っていない。
唯一、大事に大切にしたかったもの、守りたかった、自分を誰よりも愛してくれた者はこの手を今、振り払い、去ってしまった。
急に世界が広く何もない荒野へと変わり、その中に一人、ドイツは佇む。
ここはどこだ?
俺が望んだ光景はこんなものじゃない。こんなものではなかった。
「…認めない。俺は、認めないっ!」
この戦争に勝つのだ。どんな犠牲を払ってでも。正しかったと証明すれば、あなたは帰ってくる。
「そうだろう?…兄さん」
澱んだ青が嗤う。
どこで、間違えてしまったのだろう?
問えども答えは得られず、忍び寄る薄暗い闇が嗤いながら、ドイツの足元を包んでいった。
おわり
※プロイセン・クーデター
1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散させられ、プロイセン王国の名残りであった州はナチ党政権下で大管区(ガウ)に分割されて有名無実のものと化した。