「深く沈む」
Gloria in excelsis Deo
Et in terra pax hominibus bonae voluntatis
「天のいと高きところに、神に栄光、地には善意の人に平和あれ…」
「兄様~」
「…何だ、先から」
王の御前に登城せぬ日は朝からべったりと自分に張り付き、鬱陶しいことこの上ない。プロイセンと生活を共にするようになり、最初のうちこそ、プロイセンにも遠慮が有ったものの、あっという間にそんなものは無くなった。遠慮なしに全力で甘えてくる。それを鬱陶しくも嬉しくも思いながらも、神聖ローマはその甘えを許し、受け入れている。
生活はプロイセンにより保証され、何、不自由ないように配慮されている。使用人には主のプロイセンよりも、神聖ローマのことを優先するようにと、主本人より指示を受けているらしく、下にも置かぬ歓待を神聖ローマは受けている。古城で世話役に連れてきた老爺と寂しく過ごしていた日々とは雲泥の日々に最初のうちこそ戸惑い、今も若干の困惑はあるものの、いずれ消える我が身と世を捨てていたものの、今生と綺麗さっぱり切れるには未練が有り過ぎ、束の間の安息と居場所を見い出せた安堵はやはり大きかった。
神聖ローマはべったりと膝に懐き、嬉しそうに自分を見上げるプロイセンを見下ろした。
冬の陽光のような薄く翳した金色の髪、見上げる瞳は赤と青を溶かした不思議な色をしている。その目が細められ、神聖ローマを見つめる。つい最近まで血色の悪かったプロイセンの唇と頬は淡く色をつけている。なだらかな皮膚は額の生え際にある引き攣れた傷を除けば、年頃のうら若き乙女に負けぬほどに肌理細やかで、指触りがいい。オーストリアよりシュレジエンを奪い、それを糧に一段と国としての輝きをプロイセンは見せる。かつて、自分にもあったであろう栄華の一端。それが今の自分には酷く眩しい。神聖ローマは目を眇めた。
「…俺、凄い幸せだ」
それを見上げ、プロイセンは口元を綻ばせる。それを美しいと思う。聖母の微笑。軍国と言う形から程遠い慈愛に満ちた表情でプロイセンは微笑う。プロイセンの元々の質は彼女の庇護下にあった頃から然程、変わってはいないのだろう。ただ、国になりたいと望んだが為に、それは形を潜めただけで。
「…幸せ?」
「親父はいるし、兄様もいるし…。俺、こんなに幸せでいいんだろうか…って、ちょっと心配になるぜ」
悪いこと、良いこと、幸せなこと、不幸せなこと…長くは続かない。今のこの瞬間も数秒後には過去になる。それは積み重ねられ、蓄積していく。
(…今だけだ…)
そう喉元まで、言葉が出かけて、神聖ローマは言葉を飲み込む。その沈黙にプロイセンは顔を上げた。
「…別にいいんだ。今だけでも。…これは、俺が見ている夢なんだから…」
目を閉じて、プロイセンは神に祈る歌を小さく口遊む。昔は高く、小鳥の囀りのようだったプロイセンの声は、兵を鼓舞するために叫び続けた為に枯れてしまった。その声が綴る、プロイセンの一番下層にある古い記憶の中から引きずり出されてきた歌は古く、もう歌詞もメロディーもプロイセンしか知るものがいないのだろう。子守唄のようでもあり、ひどく物悲しい歌にも聴こえる。その声に引きずられるように古い記憶が霧散し、拡がっていく。
あの子の記憶。
もう随分と薄れ、古ぼけて顔も思い出せない。
たったひとつの願いがあった。
それは、もう叶うことはないけれど、この憐れな弟の願いを自分だけが叶えてやれる。
(…昏い悦びだな…)
深く沈んでいく、何も見えない感じない闇に身をまかせるような。恐れも喜びも悲しみも怒りもない、ただ、見えない不安がこれで終わるのだと安堵が広がっていく。
(…その悦びを与えてくれたのは、)
神など信じていないし、これから信じるつもりもない。気まぐれに施しを与え、翻弄する存在は時の権力者よりも質が悪い。神など信じない。ただ、信じてるのは、
「マリア」
名前を呼べば、かすれた歌が止まる。朝焼けと夕焼けの瞳が細められ、淡い唇が緩やかに微笑する。この幸福を神が自分に与えられるものか。
終わるもの、始まるもの、終わるものにとどめを刺すもの。
そう遠くない未来にここを自分は去る。そのときに、涙の一粒でも、お前が流してくれるなら、おれの生はきっと無駄ではなかったのだと、意味があったのだと、幸せだったと腹の底から笑って死ねる。
「天のいと高きところに、きみに栄光、地には善意の人に平和あれ….」
神聖ローマはプロイセンの頬を撫でる。それにうっとりと目を閉じたプロイセンの鼻梁にくちづけを落とす。
神など信じない。信じているのは、お前だけだ。
今は誰よりも、おれを必要だと言ってくれたお前が愛しい…。
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