誰もいなくなった。
もう誰も、待つ人もいない家のドアを開いて、ドイツは真っ暗な廊下を見渡す。
随分と、それこそプロイセンに庇護された頃から住み慣れた家で、あの戦火から逃れた我が家だと言うのに、拒絶するように冷たく寒く暗いと感じる。壁のスイッチを押して、明かりを点けても、その寂しさだけはひたひたと足元を暗くする。
果たして、自分が幼少から今までを過ごしてきた場所はここだっただろうか?
ドイツは送られてきた封筒を開け、見やる。
「俺には必要ない。お前に名義を譲渡する。売るなり住むなり、勝手にしろ」
宛先だけが書かれ、差出人の名前のない封筒にはシンプルな鍵ひとつと文字が粗悪な紙に滲み、殆ど読めない走り書きが一枚。それをどうにか読み解いて、ベルリンの家の鍵だと、ドイツは見当をつけた。
最初にプロイセンと住み始め、その後はオーストリアが加わり、三人で住んだ。
ほんの僅かな間。
戦火が迫り、その後は散り散りになり、プロイセンは北へ、オーストリアは自分の在るべき場所に戻った。そして、ドイツは西ドイツの首都たるボンに家を持った。移住に辺り、鎖されたベルリンの家の鍵だけがどこを探しても見つからなかった。そして、はたりと気付く。今まで、家の鍵など必要として来なかったことに。その存在すらも気に留めたことがなかった。
プロイセンが家を空けるとき、留守を守るのはドイツだった。
ドイツが家を空けるとき、留守を守るのはプロイセンか、オーストリアだった。
必ず誰かが、家に居て、「ただいま」と言えば、「おかえり」と言葉が帰ってくるそんな家だった。いつもどこからか甘い菓子とコーヒーの香りが、温かいスープと肉を焼いた空腹を刺激するようなそんな匂いがして、プロイセンの個性的なフルートの音色とそれに合わせた美しいオーストリアのピアノの音色に心を踊らせ、些細なことで喧嘩しては言い争う二人の声を聞き、帰ってくるなり何度、仲裁に入っただろう。
この家に鍵はいらなかったのだ。その必要もなかった。
最後にこの家で三人で過ごしたのは、いつだっただろうか?
戦況は徐々に厳しくなり、空を見上げればイギリスの戦闘機が見えた。…ああ、あの頃、プロイセンは既に家を出て行った後だった。そして自分は参謀本部に詰め、帰宅するどころではなくなっていた。…オーストリアも既にベルリンを離れ、ウィーンに戻っていたような気がする。
最後にこの家のこのドアを閉めたのは誰だったのか。
この家の鍵を持っていたのは、プロイセンだった。この家はプロイセンの持ち物だったのだから。この自分が開いたドアを閉め、出て行ったプロイセンの手にこの鍵は握られていたのだろう。
「…兄さん」
返事はない。呼べば、いつも声がした。やさしく名前を呼ぶ声が。…ああ、あの声をもう随分と長いことを聴いてはいない。
「……兄さん、兄さん」
冷たいカーテンが西と東を隔て、ある日、プロイセンは「東ドイツ」と名前を変えた。そして、暫くして、東ドイツはベルリンを西と東に隔てる壁を一夜にして築いた。
プロイセン…「東ドイツ」は、「西ドイツ」を疎ましく思っている。それが、その象徴があの壁で、この送られてきた鍵がもう必要ないと言うのなら、それは「決別」以外の何であると言うのか。
やっと、プロイセンは理解したのだろう。
俺が不出来な器だったことに気がついたのだ。俺は兄さんが望んだ器にはなれなかった。それどころか、兄さんの栄光と輝かしい功績に泥を塗り続けた。そして、最後にはすべて壊して、殺してしまった。どうしようもなく不出来な俺を兄さんはとうとう見限ったのだ。
二度も大戦を敗し、一度目の失敗から何も学ばず、同じ事を繰り返し、兄さんが俺に授けてくれた身体を損なうばかりか、兄さん自身まで俺は損なった。過ちに気付くのはいつも大切にしていたのに、いつの間にか疎かにしてしまっていたもの…それを失ってはじめて、失ったものの存在の大きさに気付いて呆然とする。「俺から兄さんを奪わないでくれ」と、泣き叫び懇願するより他に許される術も知らない。
何て見苦しく、浅ましい。
兄さんは俺に絶望したのだ。
だから、何も言わずに行ってしまった。
兄さんがすべてを返せと言うのなら、俺は喜んでこの身を差し出そう。
兄さんがいなければ、俺はいなかった。俺は兄さんのものだ。兄さんのものでいいから、許してくれなくてもいい、兄さんのそばにいさせてください。だから、こんな酷い通牒はいらない。この家は兄さんのものだ。兄さんのものでいい。
「…に…い…さん…」
今までずっと当たり前だったことが当たり前じゃなくなる恐怖を知った。思えば、ずっと俺の隣には兄さんがいた。手の届く範疇に、いつも。それが当たり前すぎて、俺は忘れてしまっていたんだろう。こんな日が来るなんて、想像したことすらなかった。失って初めて、知った。
「…それでも、俺は、」
失われたものを取り戻すことを考えている。兄さんをこの手に取り戻すことを、あの邪魔な壁を壊し、兄さんの手を掴み、その身体を抱くことを考えている。
東側(自分の奪われた領土)を取り戻したいだけなのか、
あなた(半身である肉親)を取り戻したいだけなのか。
あなたが俺のそばにいた。
そして、俺の隣には今は、誰もいない。
誰もいなくなった。
あの春のように穏やかだった日々を手に入れる。悪夢はもうじき終わる。こんな日がいつまでも続くなんて耐えられない。
「…兄さんが帰った来たら、そうしたら、この家で犬でも飼おうか」
きっと、あの頃のような賑わいがこの家に戻って来る。それは、とてもいい考えにドイツには思えた。