雨が降っていた。じわりと地面に赤が広がって、白い毛皮を赤が汚していく。鳴いて、「兄さん」と何度も呼ぶけれど、兄さんはぴくりとも動いてくれない。なんて、自分は非力で小さいのだろう。兄さんに守られてばかりで、兄さんの為には何もしてあげることが出来ない。
『兄さん、兄さん!!』
どうしたら、この血を止めることが出来るんだろう。そんなことも解らない。ただ、大声を上げて、鳴いていたら、ふっと体を濡らす雨が遮られた。見上げれば、そこにいたのは人間だった。
「うるせーと思ったら、何だ、怪我してんのか?」
しゃがみこんだ人間が兄さんに触れようと手を伸ばす。それに爪を立てて、威嚇する。指先からぽたりと兄さんと同じ色が落ちた。
『兄さんに触るな!!』
精一杯、虚勢を張る。それに人間は困った顔をした。
「このままだと、そいつ死んじまうぞ。手当てしてやるからよ。一緒に来い」
人間は羽織っていたパーカーを脱ぐと赤く汚れた兄さんを抱き上げ、包む。兄さんは僅かに目を開け、低く、人間に唸った。
「ここで死ぬのは本望じゃねぇだろ。ちびが心配してるぜ。見ちまった以上、俺も放っとけないからよ。怪我の手当てだけさせてくれよ」
兄さんは暫く、人間を睨んでいたけれど、またぐったりと目を閉じてしまった。人間は兄さんを濡れないように包み、俺に手を差し出してきた。
「兄ちゃんが心配なんだろ。一緒に来いよ」
この人間を信頼していいのか良く解らなかったが、兄さんはもうこの人間の腕の中だ。一緒に行くという選択肢しか残ってはいなかった。
人間は「プロイセン」と言う変わった名前のようだ。そして、弟がいる。その弟のことを「プロイセン」は「ヴェスト」と呼んでいる。でも、弟は「ドイツ」と言う名前らしい。「プロイセン」のことを俺と同じように「兄さん」と呼んでいた。そして、この家には犬が三匹もいる。最初は兄さんに何かするんじゃないかと俺は警戒していたのだが、犬達は何をするでもなく、反対に俺と兄さんを気遣ってくれた。そして、後、一羽、同居している鳥がいた。
「大分、良くなったなぁ。気づくの遅かったら死んでたぜ。お前」
プロイセンの頭の上にいつもふわふわと黄色い羽毛に包まれた小鳥がいて、それを見るたびにこう何かが込み上げてくるのだが、それを我慢する。兄さんはプロイセンの手当ての甲斐があって直ぐに良くなった。そして、プロイセンの膝の上で丸くなって目を閉じている。すっかり、兄さんがプロイセンには気を許しているので、俺もプロイセンが何かする度に威嚇するのを止めた。
「お前の弟はしっかり者だな。お前に何かする度に、ちっさいクセに威嚇して来やがる。可愛いなぁ」
顎を擽られ、ごろごろと兄さんは喉を鳴らした。
『自慢の弟だぜ!』
「そっかそっか。俺も自慢の弟がいるぜ。一緒だな」
猫の言葉が人間に解る筈がないと思うが、兄さんとプロイセンは会話をしているように聞こえる。
「でもまあ。誰にやられたんだ?結構、お前、きれいな形してるし、前に人に飼われてたことがあるだろ。傷、残っちまってもったいねぇなぁ」
兄さんの右目と左肩には深い傷が残った。傷自体は塞がったが純白の毛皮に引き攣れた傷跡は見るも無惨だ。俺は見ていられなくなって視線を逸らした。あの傷はカラスに狙われた俺を助ける為に負った怪我なのだ。巣から出てくるなと兄さんに言われていたのに、言いつけを破って、兄さんの後を俺は追ってしまった。
『傷は男の勲章だぜ』
「うん。そうだな。俺もお前と同じ傷が結構あるしな。体張って大事なもん守れたんなら、傷のひとつやふたつ、どうってことなよな」
『お前、話、解るな!気に入ったぜ!!』
ぐいっと伸び上がり、兄さんはプロイセンの頬に頭を摺り寄せる。それにプロイセンは目を細め、兄さんの背を撫でた。
「…なあ、お前さ、ウチの子になんねぇか?」
『…は?』
ぐりぐりと撫でられるに身を任せていた兄さんが目を開いた。
「ちびの為にもよ、家は必要だろ」
プロイセンの腕から、兄はすとんとプロイセンの膝から降りるとプロイセンと同じ赤い目でじっと見上げた。
『…それは駄目だ。…俺の飼い主はあいつだけなんだよ。ルッツだけ面倒みてくれよ』
「…ウチは犬もいるから、猫のお前には居ずらいかもしんねぇけど、飯を食う場所、雨を凌ぐ場所だって思ってくれりゃ、いいからよ。出入りは自由だぜ。これなら、文句ねぇだろ!」
ケセセと笑って、手を伸ばして頭を撫でてきた手のひらに兄さんは小さく声を漏らして、俺を見た。俺はプロイセンやプロイセンの弟とは距離を置いていたから、俺の意見を訊くつもりなんだろう。俺は兄さんのそばまで行くとじっと兄さんを見つめた。…ここにいれば、兄さんが俺のために怪我をしたり、無茶をして、人間の家に忍び込んで餌を取ってくる危険を冒すことも無くなる。それを考えれば、言うまでもなくプロイセンの申し出は俺にとっても兄さんにとっても有り難い提案だ。でも、兄さんは躊躇っているようだ。
『兄さん、』
『ルッツ、お前、どうしたい?』
『兄さんさえ、良ければここに留まりたい』
安住など、本当はどうでもいい。ずっとこの兄さんのそばにいることが出来るなら、野良の生活もそう苦でもない。でもまだ自分は子どもで兄さんを守れる強さも、兄さんが怪我をして帰ってきたときも何も出来なかった歯痒さだけがある。ここに留まれば食べるものに困ることもないし、雨に濡れることもない。兄さんが怪我をするリスクが減るならと思う。
『…そっか』
兄さんは呟いて何か考えるような顔をしている。それをプロイセンはじっと兄さんを見つめ、もう一度、兄さんの頭を撫でた。
「…ま、色々、お前にも猫の事情ってのがあるんだろ。居たけりゃ、ずっと居てもいいって話だ。…取り合えず、もうちょっと元気になるまではここに居ろよな」
あの人間はもしかしたら、俺なんかより兄さんのことを良く解っているのかもしれない。そう思うと何だか、腹が立つ。睨めば、プロイセンは笑った。
「ホントにこのちび、ヴェストに似てんなぁ。こんなに可愛いくちゃ、守ってやらねぇとっていう気になるよな」
俺の額を指先で撫でて来た。引っかいてやろうかと思ったが、仮にも世話になっている人間だ。我慢する。それにニヨニヨ、プロイセンは笑って、玄関からした物音に気づいて立ち上がった。
「お帰り、ヴェスト」
「ただいま。兄さん」
帰ってきたのはプロイセンの弟「ドイツ」だ。プロイセンの体を抱きしめて、両頬にキスを落として、最後に唇に口付ける。人間は兄弟同士で普通は口付けしたりはしないと思っていたが、このふたりは兄弟のクセに番でもあるらしい。
「今日の会議はどうだったよ?」
「相変わらずだ。…あ、そうだ」
「何だよ?」
「猫が今、家にいると言う話をしたら、日本から良かったらってキャットフードのサンプル品を沢山もらったんだ」
「へー。あ、これ、何か美味そうだな」
「ああ。色々、あるぞ。ツナとか、ささみとか。後、ドライフードもあるから混ぜて与えればいいんじゃないか。いい加減、ミルク粥も飽きただろうし。…白いのの傷の具合はどうなんだ?」
「今日、包帯取った。…ってか、白いのは前に人に飼われてたことがあるんじゃねぇかと思うんだ。薬もちゃんと嫌がらずに飲むし、傷の手当のときも暴れたりしなかったしよ」
「そうだな。何だか、毛並みが違う気がするな。しかし、猫のアルビノとは珍しいな」
「普通に白いのはいるもんなぁ。俺と何か似てるし。…何だか、放っておけなくてよ」
プロイセンは兄さんを見やり、目を細めた。
ねこたりあ。本家でねこたりあktkr!なときに書いたもの…。隊長宅に住み着いた経緯を妄想してみた。
ちなみに猫兄さんの元飼い主はフリッツ親父。
親父の遺言で猫兄さんにすべての遺産が相続されることになり、その遺産を巡る人間たちの争いに嫌気が差し、家を飛び出し野良猫生活してたところ、捨てられてた弟猫発見。行動を共にするようになり、冒頭の出来事が起こったと…。猫兄さんはそんなこともあって、人間不信なんだが、兄さんとは何か気が合う感じだ。
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