俺はずっと許しを乞うている。
誰に?
誰も、もう、俺を許すものなどいない。
信仰さえ既に捨てた。
神は俺の元を去った。
あァ、嘆き悲しめど、俺の叫ぶ声など誰にも届きはしない。
流す涙を拭うものも、傷を舐めてくれるものも、誰も、誰もいやしない。
辺りを見回せど、真っ暗な海。ざらついたノイズのような波の音。
足元を浚って、飲み込んでいく。
「誰か!」
叫ぶ。声は波に掻き消される。伸ばした手は黒い波に飲み込まれる。
(誰もいねぇ。誰も、俺の手を掴んでなどくれない)
それでも、助けてくれと叫ぶ。
(ああ、もう駄目だ…。誰も、俺を助けてくれる奴なんていやしない)
波に飲み込まれ、沈んでいく。伸ばした手は水面を離れ、堕ちていく。その手を不意に誰かが掴んだ。
「いるじゃねぇか。俺が」
ぐっと掴まれ引っ張り上げられた腕が痛い。痛みに目が覚める。突然、響いたその聞き覚えのある声にプロイセンは瞳を瞬いた。ぎしりとベッドのスプリングが軋み、緊張に身を硬くすれば、暗闇に赤が嗤った。
「あーあ、本当に弱くなっちまったな、俺」
プルシャンブルーのコート、赤い薔薇飾りの二角帽。身を乗り出すように赤い瞳はプロイセンを覗きこんだ。
「髪なんか、色素が抜けて真っ白じゃねぇか。肌はどこかの貴婦人のようだ。ああ、俺ともあろう男が情けねぇ」
頬を滑る白い手袋。その指先がシャツの襟ぐりに引っかかる。肌蹴た胸をなぞり、溜息を吐いた。
「貧弱になったもんだ」
痩せた胸を撫でられ、プロイセンは眉間に皺を寄せた。
「…うるせぇよ」
それにそう返せば、フンっと自分の絶頂期の頃の顔をした青年は口端を歪め、笑った。
「減らず口は顕在か。それは、結構!そうじゃないとな」
ぐっと、顔が近づき、間近で赤がプロイセンを見つめる。それをプロイセンは睨み返した。
「…何しに来た?」
「…さあ?お前、俺なんだから、俺が何をしに来たのか言わなくても解ってるだろう?」
赤を赤で見つめ返す。唇に掛かる吐息。身につけた服からは微かな硝煙と血、土の匂い。戦場の匂いがする。絶望とその中にあった一縷の希望に生を繋ぎ、戦い続けた長く辛い苦境を自分は確かに生き、かけがえのないものを手に入れた。自分に忠誠とその全てを捧げた王と、永年の夢であった列強の末席を手に入れたのだ。血に染まり、黒く汚れたこの手で。…その手でプロイセンは青年の頬へ触れる。青年は赤を眇めた。
長い苦境を乗り切り、手に入れた眩しく輝かしい晴れやかなあの栄光と栄華。あの日の俺…。
「…慰めてやるよ。お前を慰められるのは、俺しかいねぇだろ?」
その頬に触れた手を青年は掴み、口付ける。…この身から既に失われてしまった美しい形。…失ったのではない。与えたのだ。それを持つに相応しいライヒに。それを後悔などしていない。その為に自分は在ったのだと今でも、プロイセンは思っている。その結果が今のこの状況だとしても、それを悔いることは絶対にない。
「…唯一、俺を癒すことが出来たフリッツはもう既にこの世界を去った。…ドイツではお前の孤独を埋めることは出来なかった。もう、お前は癒されることなど望んでいないしな。…兄上が健在なら良かったんだけどな…」
赤は僅かに色を変えた。それにプロイセンは自嘲を浮かべた。…命脈を保つつもりが、断ってしまったのは自分だった。…死の間際、神聖ローマは「やっと楽になれる」と安らかな笑みを浮かべ、目を閉じた。その遺体に縋り、目が融ける程に自分は泣いたのだ。
「…ハ、無理な望みだ」
プロイセンは嘯く。それに赤が言う。
「ああ、無理な望みだ。己の痛みは結局は他人には理解してもらえねぇし、癒せねぇ。自分の傷は自分で舐めないとな」
笑った唇が重なる。乱暴に口腔を舌で弄られ、息も出来ず、縋るようにコートを掴む。なんて、冷たく熱い、唇だ。嫌悪で腹が一杯になる。慰めにもなりはしない。
「…ハ、変な気分だぜ」
赤が赤を見下ろす。
「…それは、こっちの台詞だ」
許しなどいらない。癒されることなど望んではいない。ウロボロスの環のように己の尾を噛み、ぐるぐると永劫回帰し続ける。
許しを乞い続け、膿んだ傷が癒される日を待ち望み、その裏側で罰を望み、膿んだ傷が広がり腐り落ちて苦しみ悶えることを望む。免罪など永遠に来ないことを望んで、ぐるぐると。
「気持ちいいコトしようぜ?」
赤が嗤う。己の尾を噛んだ痛みがぐるぐると脳の回路を回る。接続された回路は流される命令に従い続ける。
繋がろう。ひとつになろう。
痛くて、心地の良い嫌悪感で真っ黒になる。
もっと、傷を掻き毟れ。血が流れ、膿が爛れるほどに。
壊れるほどに、俺を愛してくれ。
生きているという証しを与えてくれ。
神は俺の元を去った。
信じるものはない。
救いの御手など、差し出されはしない。
あるのは、汚れた手とその手を握り返す、同じように汚れた手。
ああ、愛しているとも。
俺は、俺を。
誰も俺を愛してはくれない。なら、俺が俺を愛してやるしかないじゃないか。
ここには、俺しか、俺以外に誰もいないのだから。
「ひでぇ、ツラ。…なのに、どうしてこんなに愛しいだろうな。弱りきったお前が」
白み始めた部屋。プロイセンは唇を歪め、眠る己の頬を撫でた。