この世界から、最愛のひとがいなくなって20年。
あのひとがいなければ俺は生きてはいけないと思っていた。でも、俺は今日も自分の足で地に立ち、呼吸をし、あのひとがいなくなっても延々と続いていく日々を生きている。
もう、喪失感にはすっかり慣れて、あのひとがいたぬくもりさえ、この身からは失われた。無情に流れていく時間にただ立ち続け、与えられた仕事をこなす。それだけの日々。俺の世界に色鮮やかにあったすべての色は、あのひととともに失われた。目の前に広がるのは白と黒。モノクロの風景。その中に、今日も一人、俺は立ち尽くす。
仕事を終え、ドイツは庁舎から徒歩で遠くもない自宅に帰る。公園を抜ければ、すぐそこにある我が家。行き交う人々を眺め、ドイツは信号を渡る。
(…夕食は何にしようか。…あるもので適当にすませるか…)
ぼんやりとそんなことを考えながら、歩く。どんっと衝撃が来た。はっと我に返る。人にぶつかったらしい。
「…ってな!」
「す、すまない!」
反射的にそう謝れば、赤いパーカーの下から好戦的な赤い瞳が覗き、じろりとドイツを睨む。その赤にドイツは呆然と見入った。
「ちゃんと、前向いて歩けよな」
それだけ言うと青年は何事もなかったかのようにドイツの脇を通り過ぎる。その腕を反射的にドイツは掴む。それに青年は蹈鞴を踏んで、眉を寄せた。
「兄さん!」
思わず口を衝いて出たドイツの言葉に青年は訝しげに眉を寄せ、若干、視線の高いドイツの青を見やった。
「兄さん?」
見れば見るほどに青年はプロイセンにそっくりだった。顔、造作、寄せられた眉と驚いたときに僅かに開く唇と。それにドイツは見入る。…が、プロイセンならば即座に自分を見て、微笑んでくれるはずだ。プロイセンはもうこの世界のどこにもいないのだ。もう二度と自分に微笑ってくれることなどない。
「…あ、いや、その、すまない」
謝れば、青年は訝しむ事もなく笑った。
「俺、お前の兄貴に似てんのか?」
「…ああ、瓜二つだ」
「ふーん?…一緒に住んでんのか?」
その言葉に赤い目を見開いて、ドイツに興味を持ったのか青年はドイツに向き直る。ドイツは眉を寄せた。
「…いや、死に別れた…」
そうなるのだろう。壁が崩壊し、再統一を果たしたあの日忽然と兄は姿を消した。ドイツの地を、兄の心臓部に等しかった地を隈なく探し、現実から目を背け続けた。でも、兄を探そうともどこにも彼はいなかった。いないのだと理解するのに十年、諦め切れずに、それでも未だに自分はその事実から目を背け続けている。どれだけ時間が経とうともこの喪失感は埋まることが無い。ドイツは思う。
「…そうか。悪いこと訊いたな」
青年はそう言うと、視線を伏せる。それをドイツは見つめた。見れば見るほどに、青年はプロイセンに良く似ている。銀色の髪も、伏せられたアルビノの赤い瞳も。少し嗄れた声も。その瞳が上がる。離したくないと思う。…もしかしたら、…そんなことがあるはずは無いのにそんなつまらない身勝手なことを思う。
「…あの、良かったら、名前を教えてもらえないだろうか?」
このまま別れたくない。そんな思いが勝手に口を衝く。情動的な想いに身を委ねる。心臓が飛び出しそうに脈を打っている。ドイツは青年を見つめた。青年はほんの少し躊躇う素振りを見せたものの口を開いた。
「…ギルベルト。お前は?」
青年はドイツに名を尋ねてきた。
「ルートヴィッヒだ」
昔、名も無き時代に兄は自分をそう呼んだ。その名をドイツは口にする。
「ルートヴィッヒ?……いい、名前だな」
屈託無く笑った青年にぎゅうっと胸が締め付けられる。ドイツは顔を歪める。
統一したあの日もこんな顔をしていた。プロイセンは病み上がりの青褪めた顔にひどく穏やかな笑みを浮かべ「もう、大丈夫だよな?頑張って来いよ」、式典に向かうドイツにそう言った。それが最後だった。祝杯を上げようと、色んな物を両手いっぱいに買って帰って、ドアの鍵を開ければ真っ暗で。ただ、玄関に彼が身につけていた衣服と肌身離さず付けていた鉄十字だけが落ちていた。
思い出すと今も、胸を締め付けられる。喪失感に息が詰まる。呼吸が出来なくなる。ドイツの頬を一滴、涙が落ちる。それに青年は狼狽し、ドイツの濡れた頬をシャツの袖で撫でた。
「おい、泣くなよ。どうした?」
「…いや、本当に、あなたが兄と似ているので…自分でも、良く解らない」
「そんなに似てんのか?」
「…ああ」
姿形、喋り方、頬を撫でる指先の温度さえ、全てがプロイセンだった。青年は困ったような顔をし、仕方が無いという顔になる。徐にパーカーを脱ぐと頭からドイツへと被せた。
「?!」
「視線がすげー、痛い。俺が泣かしたみたいじゃねぇかよ」
「…す、すまない!」
「まあ、別にいいけどよ。今まで、泣けなかったんだろ?泣けば?」
どうして、こう見透かすような物言いまでそっくりなのだろう。目の前にいるのは本当はプロイセンではないのか…ドイツは思う。
「でもまあ、ここじゃ、アレだからよ。移動するぜ。俺、お使いの帰りなんだよ。早く戻らないと親父に睨まれるぜ」
青年はドイツの袖を掴むと引いて歩き出す。それにつられるようにドイツは青年の後に続く。
「…すまない。迷惑をかけてしまって…」
「迷惑って思ったら、ほっとく。お前のことは何か、何か気に入ったから面倒見てやるぜ」
表通りから離れた路地に入る。住宅街の立ち並ぶ一角、ぽつんとある喫茶店のドアを青年は開いた。
「ただいま」
「お帰り。遅かったじゃないか。ギルベルト、迷子になってしまったのかと思ったよ」
ドアベルの音にカウンターに立った壮年の男が顔を上げる。
「ベルリンは俺の庭だぜ?迷子になんかなるわけないだろ!ほら、頼まれていた本」
「有難う。…ところで、そちらの彼はお前の友人かね?」
カウンターにどさりと音を立てて紙袋が置かれる。それを見やり、壮年の男がドイツを改めて見やる。ドイツは慌てて、頭から被っていたパーカーを取った。
「今日、知り合いになったんだよ」
「…こ、こんにちわ。…ルートヴィッヒと言います」
「私はこの喫茶店のマスターでフリードリヒだ」
「…フリードリヒ?」
プロイセンにそっくりの青年、兄が父と慕った上司と同じ名前。作為的な偶然にドイツは瞳を瞬いた。
「珍しくもない名前だろう?父が大王にあやかって付けた名前らしいがね。立ってないで座りたまえ。今、コーヒーを淹れよう」
「え、いや」
「遠慮すんなって、客いなくて暇だしさ。親父の淹れるコーヒーは世界一美味いんだぜ」
進められるがままカウンターの前にドイツは腰を下ろす。ギルベルトはカウンターの中に入ると手を洗い、さてとドイツを見やった。
「カップ、どれがいい?ウチではさ、客に好きなカップを選んでもらうんだ。常連になるとさ、自分でカップ持ち込んで勝手に置いていったりするんだけどよ」
ギルベルトが指差した棚にはカップが何種類も並んでいる。人目で高価なものだと解るマイセンの磁器に混じり、安っぽいカップやアンペルメンヒュンのカップ、色んなカップが並んでいる。その中、白磁に青い花の意匠が施されたカップがドイツの目に止まる。
「…どうして、」
戦争が始まる前、家にあった兄がずっと使っていたカップがそこにあるのだろう?ドイツは立ち上がるとそのカップを手に取る。
「気に入ったのあったか?」
声を掛けられ振り返る。ドイツはギルベルトを見つめ、手にしたカップへと視線を落とす。あのカップには取っ手のところに罅が入っていた。買い換えようと言った自分に兄は何と言っただろうか。
『お前が俺に贈ってくれたものだろう?捨てられねぇよ。まだ使えるし、これでいいぜ』
戦後の混乱で家は焼けてしまい殆どのものがガラクタになってしまった。兄が使っていたこのカップも壊れてしまっただろう。同じものではない。なのに、
「…嘘、だ…」
取っ手の付け根、同じ場所に小さな罅。ドイツは言葉を失い黙り込んだ。
「そのカップ、取っ手のところに罅、入ってんだろ?それにそのカップはさ、親父が言うには、ウチに戦前から通ってた常連客がずっと昔に置いていったカップなんだってさ。他のやつにしろよ」
「戦前から?」
青年の言葉に思わず、ドイツは顔を上げた。
「若い将校だったらしいぜ。詳しいことは知らないけど。生きて帰ってこれたら、またコーヒーを飲みに来るって置いて行って、それきりらしいけどな」
きっと、それは兄だ。ドイツは確信する。まさか、こんなところで兄の足跡を見つけることになるとは思わなかった。
「他のにしろよ」
「…いや、これがいい」
カウンターにそのカップを置く。ギルベルトはそれ以上は何も言わずそのカップをサイフォンの前に座るフリードリヒへと渡す。フリードリヒはカップを受け取るとコーヒーを注ぎ、そのカップをドイツの前へと置いた。
「ごゆっくり。…ギルベルト、私は上に上がるよ。何かあったら呼びなさい」
「解った」
紙袋を手に、フリードリヒは足が悪いのか右足を引きずり、カウンターの奥の部屋へと入っていく。それを見送って、ギルベルトはドイツを見やった。
「何か、食う?飯、まだだろ?」
「いや、そこまで面倒はかけられない」
「気にすんな。俺が腹減ってるんだよ。アンタのはついでだ」
冷蔵庫を漁り、卵を二つ。ジャガイモを茹で初め、スープ鍋を温め始めたギルベルトをドイツは見やる。手のひらでカップを覆う。何もかもが懐かしい。随分と昔、こうしてよく兄は帰りの遅い自分の為に食事を作って、待っていてくれた。
「残りもので悪いな」
「…いや、有難う」
茹でたジャガイモにオムレツとほうれん草のソテー、東ドイツでは家庭料理だったらしい赤い色をしたロシア風のスープのソリャンカ。壁が壊れて、統一の直前、兄が最後に自分に作ってくれたメニューだった。
「…懐かしい味がする」
スープを口にして、ドイツは呟く。それにギルベルトは「そっか」と頷いて、スープを啜り、簡易な夕食をかつかつと平らげてゆく。その食べ方までがプロイセンと同じだった。
(…このひとはもしかしたら、兄さんの生まれ変わりなのだろうか?)
そんなつまらないことを考える。神など信じてはいない、信じていたのはただひとり、プロイセンだけだった。プロイセンを失ったことは、信仰を失ったにも等しい。あのとき、自分の中で何かが死んだのだ。
「…お前の兄貴って、どんな奴?…言いたくなかったら、言わなくてもいいけどさ」
食べ終えた食器を流しに置いて、サイフォンからコーヒーを注ぎ、カウンターを出て、隣に腰を下ろしたギルベルトは指を伸ばすと、微かに涙の跡の残るドイツの目尻に触れた。
「…好きだったのか、その兄貴のこと」
「…好き…と言うか、俺のすべてだった。あのひとがいなかったら、俺はここにはいなかったから」
触れた指が離れて、頬杖を付く。赤い瞳はじっとドイツの青を見つめた。
「いなかった?」
「ああ。いなかった。俺は何も持ってなかった。存在の意味もなく、ただ居ただけだ。あのひとは俺に存在の意味を与えててくれた。そして、自分のものを全部、俺に与えていなくなってしまった」
自分の存在も全てが、ドイツの為の存在だったのだと。それを、プロイセンは誇りにしていた。それを当たり前のように甘受していたツケが今、この有様だった。失って初めて知ったのだ。その存在の意味を。その存在の消失は今まで味わってきた苦痛の中でも容赦のない鋭さで胸を抉り続けている。最愛のひととの余りにも突然の別れを、未だにドイツは受け入れられずにいた。
ギルベルトはプロイセン消失後、二十年と言う時間が生み出したプロイセンに対するドイツの思慕から生まれた国民で…と言う設定。んで、ドイツはギルベルトに兄さんの影を探し、ギルベルトをいつの間にか愛するようになり、ギルベルトもドイツの愛を受け入れていくのだけれども、自分の中に自分の知らない誰かの面影を常に探すドイツにギルベルトは耐えられなくなって、別れを切り出す。それに、ドイツは…。……的な話を書こうとしていたんだが、冒頭を書いて、くしゃみしたら飽きた。
お蔵入りさせるのも惜しいので、日記にこそっと上げてみる。…勢いって大事だなって思うぜ。最近、持続力がなくて困るぜ…。
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